今回、学会で鹿児島に来たのですが、少し時間があったので、天文館通りや甲突川(こうつきがわ)を散策しました。維新ふるさと館で見た大久保利通の展示が興味深かったです。
西南の役での西郷隆盛の死後、大久保は馬車の中で幼馴染であった西郷からの手紙を読み返している時に、不平士族に暗殺されました。大久保は事実上、日本初の内閣総理大臣であったにも関わらず、実際は私財を投げ売って借金してまで国や鹿児島に尽くしていたこと後から判明したそうです。それを知った暗殺の実行犯らが懺悔したという話が印象的でした。
無益な内戦を起こさないために、士族を鎮めるのが西郷の役割であり、そこを悲劇のヒーローのように扱うことには少し違和感がありました。大久保利通は冷徹なエリートとして描かれることが多いような気がするのですが、実は西郷より重要な人物かもしれません。鹿児島では大久保の功績は当たり前なのでしょうが、やたらと西郷のイメージが強すぎます。
それにしてもなぜこの鹿児島の加治屋町という甲突川沿いにある一周約2km程度の狭いエリアから、西郷、大久保、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛など明治維新、日露戦争を主導した偉人が輩出されたのでしょうか?薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育が有名ですが、そこまで影響があるとは思えないし、その後、鹿児島から多くリーダーが出たわけでもありません。
それには地理的要因と時代が大きいような気がしました。実際行ってみると、鹿児島は江戸や京都から遠く離れていて、琉球や中国大陸に近い異質な土地です。平均身長が158cmだった当時、大久保や西郷はじめ薩摩の武士は体が大きく現代人と変わりなかったそうで、琉球から入った肉食文化が影響した可能性を資料館で指摘していました。
言い古されたことかもしれませんが、革命は周辺から、異質なものから生じるのだろうと感じます。そう考えると幕末に似てきたとも言われる現代も、昭和・平成のメインストリームではなかった最果てから変化が起きるのでしょうか。
こんなふうに、学会中に散歩しながら、仕事とはまるで関係ない史実に思いを馳せるのも悪くないです。学会とか発表にも慣れてきたということでしょうか。今回は座長もやらされましたし。
(2024.7/23)