オートエスノグラフィーの困難

科学コミュニケーションと映像に関しては、まだ何も自分は研究的な活動は始められていないなと思っている。
ある著名な広告・マーケティング分野の方が北海道大学アイヌ・先住民研究センター、石原真衣氏の「〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー) サイレント・アイヌの痛みと救済の物語」を紹介していた。私はまだ読んではいないけど。
科学コミュニケーションにおいても実践内容を報告として学術誌に掲載するということがよくある。これは、オートエスノグラフィー(著者自身が個人的経験を調査する質的研究の一種)と言えなくもないだろう。しかし時に自分たちの活動を自己省察することは、客観的に論述していく科学的手法と相反する困難さが常につきまとっている。

大阪市中央公会堂(記事内容とは関係ありません)

誰か研究者が、ディレクターである私を調査してくれれば、いろいろ自分から引き出せるような気もするが、自分自身でそれをやるのは非常に難しい。科学コミュニケーションと映像などという分野をやっている人間は他にこれまでほぼ誰もいなかったが、今は少し仲間が増えつつある。私自身はそろそろ映像を作るだけでなく、調査する側としても、あまり好きな仕事ではないが実践者から経験や知識を引き出さないといけない。

とはいえ、ここ数年は映像を制作しながら、そのプロセスを客観視するように努めてきた。自分で編集しながらも、どのようなロジックで映像を選択し並べているのかといったことを観察しているつもりである。メディアで仕事をしていた頃とは違い、今は全行程をほぼ一人で短時間のうちにまとめないといけない。特に編集や台本制作は直感的にこなしている。だいたいは短い期間で作らないといけないので制作のプロセスはかなり省略する。

最近は正味3日くらいで集中して作ることが多い。素材が少ないことがよくあるので、若干、パズルを解くような作業でもある(3日で編集が終わるという意味ではない)。どのカットを使えば、見ている人の気持ちに訴えられるかという感情の部分と、ストーリーの整合性といった論理の部分の組み合わせで、直感的にストーリーや映像の順序を選び取っているようである。だが、このような自分の思考回路でさえ把握するのは難しい。
この直感は制作の仕事をする中で徐々に培われたもので、他のディレクターにもそれぞれの方法論があるだろう。それを個別に明らかにすることに正直それほど意味があるとも思えないのだが、何かその先に意味を見いだすことができるかもしれない。

2022/12/30

映像制作とDAO

頼まれ仕事が多く、最近はちょっと疲れ気味。2月になったら少し落ち着くだろうか。

前の記事で映像制作の役割分担について書いたが、それは、少し前からDAO(非中央集権型自律分散組織)に興味があるからだ。以前は会社組織を考えていたこともあったが、現在はブロックチェーンによってプロジェクト型の可変的な組織を作ることができるようなので、そちらの方が映像制作とは親和性が高いかもしれない。

難波宮跡(なにわのみやあと)公園(記事内容とは関係ありません)

たまたま、堤幸彦監督、本広克行監督、佐藤祐市監督が「SUPER SAPIENSS」というトークンを基盤とした共創コミュニティを作るということで、関係者からお声がけいただいた。私がぼんやり考えていたことを、ドラマ・映画界のカリスマである3人が既に実施しているということで非常に興味深い。DAOやNFT自体よく分からないという方は、このサイトなどを参考にしてほしい。

最近、メディア業界のヒエラルキー構造は弱まっている。広告予算の減少もあるが、インターネットやデジタル技術によって情報流通と技術的な優位性の2つのボトルネックが崩れたことが大きい。誰でもYouTubeなどで動画配信をして広告費を稼げる時代にあっては、フラットにプロジェクトメンバーを組み替えるチームの方が機動的に創作がしやすい。

映像の受け手にも変化は及んでいる。若者は映画やドラマを除けば、内容が凝縮された高品質なコンテンツをあまり見ようとしなくなった。むしろ気の抜けたVログや、感覚だけで見られるMVを好む傾向がある。
良い番組を見せればもちろん感動はするが、上の世代が「この情報が面白い、意義がある」として作ったものはなんとなく億劫というか、意味づけの強いものを避けるというか、「別に今は何か知りたいわけではない、特に何か分かりたくはない」という心情にはまりにくくなっているのかもしれない。もちろん自分もそういうときはある。選択肢が増えたということでもある。

若者からすると、作っている側の人間の”ノリ”が、自分に合ってるかどうかのほうがむしろ大事であり、DAOやNFTが今後、映像プロジェクトを育てていく手法として取り入れられていくのではないかと考える理由である。例えば、コンプライアンスが今ほどうるさくなかった頃のフジテレビの”ノリ”は世間の空気と確実に合っていたように思う。

私も個人や大学で映像制作を請け負うことはある。動画の単価は安くなる一方なので、会社だと組織維持がだんだん難しくなっていくように思う。やるとしたら小規模な組織か、フリーランスなどがDAOによるコミュニティを育て、複数のプロジェクトを走らせていくという形が今後も出てくるだろう。

2022/12/3

2022 新年の抱負

今年で錦鯉の長谷川と同じく50歳になる。こないだ同窓会的な忘年会を札幌でやったが肩が痛い、近くが見えないなど情けない話題と、子供が大学に入っただ、受験だなんだ中年トークでひとしきり盛り上がる。

ここで今後の仕事に夢も希望も無いとなると、なかなか寂しいものがあるが、まだ若い学生と一緒に何かを作るような仕事でよかった。私自身の発想が枯れても、若い子たちからいくらでも出てくる。自分の仕事はそれをうまく着地させ最終的な成果物にもっていくことかな。

富良野スキー場にて

簡単にまとめると以下のような抱負になるだろうか。

  1. 付加価値の高いコンテンツをつくる
  2. 若い人の新しい発想を大事にする
  3. 才能をオーガナイズする

1は、具体的にいうと、私のように小規模な個人商店では普通に映像を作ってもまず見てもらえないので、何かしら表現方法に新規性をもたせることだ。今は学生の発案で、小規模なプロジェクションマッピングに取り組んでいるが、それもAfter Effectsを使えば誰でもできるレベルのものである。しかし、VRやARなど組み合わせによっては、注目してもらえるようなコンテンツが作れるかもしれない。昨年投稿した論文では「体験型映像」と名付けている。

2は、価値観が転換している今の時代においては、自分の感覚は当てにせず、若者の発想力に頼るということだ。もちろん彼ら彼女らは最後までやり切る経験やノウハウに欠けている。そこを補いながら、着地まで持っていってあげることが年長者の仕事である。ましてや教員なのでそれがメインだ。だから、突飛な発想であっても、無理だとは言わず、どうすれば最後までもっていけるかを考える。

3は、これまで個人で形にすることが多かったが、今後は才能をうまく組み合わせて相乗効果を出すことが今の立場では重要だ。なので、安い仕事を請けて一人でやり切るみたいなのはもう止めたい。自分でできないことといえば例えば、デザインや音楽、アニメーションなどだが、こうしたジャンルの優秀な人をどんどん組み合わせて大きい成果につなげたい。

学生に表面的な技術を指導するのはそれほど難しくない。本当に難しいのは、コンテンツそのものを作る、つまりきちんと企画・構成して意味のある作品に仕上げるということだ。普通に良質な映像作品を作ってもそれほど注目を浴びることはないのだが、本来はそうした「内容そのもの」をきっちり作るのが一番難しい。そういう意味ではテレビとかで鍛えられた人は強いなと思う。科学番組を作るのにあまり科学のバックグラウンドは必要ない。大事なのは経験によって鍛え上げられた感覚である。

2020年にはフリーのような状態になっていろいろな選択肢が自分の前に示された時があったのだが、昨年のように、専任教員を軸にたまに本務に役立つような形での動画作品を作るのが自分にとっては最適だった。事務系の専門職みたいな話もあったのだが、こちらは本当に向いてないとつくづく思った。しっかりした事務がバックにいると心強いが、私自身は仕事で少しでも非効率なところがあるとすぐ嫌になってしまう性分なので書類仕事は難しい。

というわけで、今年も引き続き昨年の路線で教育3+制作1くらいの割合でがんばっていきたい。

追伸:過去の年賀状を失くしてしまったのと住所録が文字化けしてしまっていたので、年賀状は来た方にだけ追々出していきます。すいません。

2022.1/2

2020 社会の構造が変わった年

今年は組織から離れ、個人で仕事をした年だった。外側から見ると、新型コロナウイルス感染症対応では、これまで日本の組織が抱えていた以下のような問題点が浮き彫りになったように思えた。

  1. 古いやり方がなかなか変えられない
  2. 評価や価値判断ができない
  3. 組織の力を結集できない

だが変わる能力のある組織は変化し始めた。例えば、印鑑廃止というのはそれに伴う業務プロセスすべてに影響するので、これまでのように何となく仕事を末端に押し付けていてはことは動かない。トップの決断が必要となるし、責任を負う覚悟も必要だが、印鑑廃止を始めた組織も多い。ものごとの価値を判断・評価できないという日本の宿痾において、印鑑と年功序列は何かつながっている要素のようにも思える。行き着いた究極形が、IT担当相がはんこ議連の会長という、、台湾の天才IT大臣と比べると壮大なブラックジョークの現実化である。
DXという言葉が流行っているが、デジタル化が本質ではない。アナログの方が効率の良い場面はあるわけで、教育も何でもオンラインやデジタルでやればよいというものでもない。トップがリスクをとって、一つ一つの結果を適切に評価しその都度、判断できるかどうかが重要だ。

DXでフリーランスの時代が来るようにも言われているが、逆にこれからはデジタルツールや普遍的な能力を獲得している人材を内部で育てていかないと、組織の成長もおぼつかない。
既得権益が有効で、組織が揺るがない時代は、外注の管理業務だけ任せられる無難な人材でもよかった。しかし、デジタル化は本質的な変化である。

2020年は本当に節目の年だった。私は来年度は組織にふたたび属する予定で、今度は自分が試されることになる。今までは権限がないので気が楽でもあったし、責任をとる必要もないので甘えたところもあった。
メディアの世界も激変した。個人の能力で生きていけるタレントたちがどんどん組織を飛び出し、新たな動きを生み出している。新聞にもテレビにも書籍の世界にもデジタル化による不可逆的な変化が進んでいる。

個人的には今年の仕事では登山VRが印象に残っている。新境地を開いたというほどではないが、これまで自分が好きでやってきたことがつながったような気がする。まだ進行中なので詳しくは言えないが、北大での仕事もだいたいやり終えた感じはする。それぞれに大きな組織に所属する優秀な若者とともに仕事をしてその成長を実感するという、指導者として幸運に恵まれたことが最大の収穫だった。無難に受発注業務だけこなすような人材ではなく、今後もプロフェッショナルとして創造的な仕事をしていくと期待する。
私はオールドメディア出身ではあるが、もう新聞とかテレビといった旧来の媒体の枠組みで語る時代でもなくなった。来年からは、新しい変化を起こすことに焦点を当てて仕事をしていきたい。

2020/12/30