What does video content mean for Science Communication?

One of the defining characteristics of video is its ability to convey not only information but also emotions. In recent years, with the widespread use of smartphones, anyone can now communicate messages through video, and its presence continues to grow.

Communication is not just a rational activity for “transmitting” information—it also involves “sharing” emotions and thoughts with others. The amount and quality of information we receive is vastly different between reading an email and having a face-to-face conversation. For instance, consider how different it feels when a positive message is conveyed with a lively facial expression. The impression changes significantly depending on facial expressions, tone of voice, timing, and gestures.

Video is a medium well-suited for facilitating such nonverbal communication. It combines motion with various expressive elements such as voice, facial expressions, subtitles, and music, all of which powerfully appeal to our emotions. Video often serves as an effective entry point for sparking interest, especially when conveying complex and specialized information—like science—to a broader audience and helping them understand the context.

On the other hand, science is fundamentally built on logic, deliberately excluding emotion and subjectivity, which can make it less suited for strong emotional sharing. Nevertheless, video is effective when it comes to romantic or awe-inspiring themes like dinosaurs or space, and it is also well-suited for visually engaging subjects like wildlife or robots. Even for more abstract themes like mathematics, physics, or chemistry, if the researchers or science communicators speak passionately and engagingly, they can move the audience emotionally through their presence and storytelling. For topics such as climate change or environmental pollution, the speaker’s expression, narration, and background music can effectively convey a strong sense of urgency from the creator.

Since videos are structured to tell a story within a limited timeframe, they inevitably reflect the creator’s intentions. While science prioritizes logic and strives to eliminate subjectivity, creative works—including video—cannot exist without some degree of subjectivity. The true skill of a science and technology communicator lies in how they use their own subjectivity to transform the objective and logical realm of science into an emotionally engaging story that resonates with people.

Here are two contrasting approaches to creating video content.

The first is the so-called “TV program style”, which prioritizes clarity by presenting the content from an objective standpoint, using narration and comments from presenters or interviewees. This style typically uses multiple cameras and carefully edited footage.

The second is the “YouTube video style”, in which the creator interprets the theme subjectively and directly speaks to the camera, expressing personal thoughts and feelings. This style often lacks inserts and features abrupt, minimal editing.

Consider which approach best suits your theme, depending on your purpose.

April 20, 2025

それでも故郷に花は咲く

昨日のNHKスペシャル。2024年正月の能登半島地震に加え、9月の豪雨、洪水によって壊滅的な打撃を受けた輪島市において、中でもあらゆるルートから寸断され何度も孤立した町野町若桑地区の人々を追ったドキュメンタリー。

©NHK

NHKスペシャル「それでも故郷に花は咲く〜能登・限界集落の1年〜」https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2025011124613?calendar=20250111&ch=g

ニュースを見ていて、災害がなくても限界集落だったのだから、さすがにもうここに住むのは難しいだろうなくらいに軽く考えてテレビを見ていた。

住民がそれぞれ良い表情をしていて映像にひきこまれた。花を育てている農家の方がいた。しかし、地震に続くさらなる災害にによって、再び絶望の淵に叩き落される。住人の苦悶の表情を見て、他人事と甘く見ていた自分の考えの浅さというか、想像力の至らなさのようなものを強く感じた。

地震による壊滅的な被害を何とか乗り越えようと、住民たちは助け合って、家族を思いやり、必死に生きようとしていた。おばあさんはトルコキキョウを植えながら、「自分が裏切らん限りは、この人(花)は決して裏切らんよ」と話し、微笑んでいた。花言葉は「希望」だという。誠実に仕事や生活と向き合い、キリコ祭りも復活させようと、ようやく未来が見えてきた矢先のことだった。

千年に一度という9月の豪雨と洪水によってビニールハウスの中はめちゃくちゃになった。取材に来たディレクターの女性の顔を見るなり、知った顔を見たことでおばあさんは感情が溢れ出し、「泣かんとこうと思ったのに」と言いながら、顔を伏せて嗚咽した。冷蔵庫に身体を預けて耐えきれない様子だった。

本来は希望の象徴だったはずの白いトルコキキョウ。泥をかぶりしおれた様子が能登の人々と重なって、本当に辛いシーンである。どれだけ辛いだろうか。人々の本当の苦しみを1ミリも理解できていなかったと思い知らされる。

これは今日の輪島塗のNHKスペシャルでも同じだった。正月に地震が起きるのと、千年に一度の豪雨をかけ合わせたら、一体どんな確率になるのか。そんなめにあった人々の気持ちを少しでも理解できるものなのか。災害列島に住む日本人必見のドキュメンタリーである。

2025/1/12

大久保利通の再評価

今回、学会で鹿児島に来たのですが、少し時間があったので、天文館通りや甲突川(こうつきがわ)を散策しました。維新ふるさと館で見た大久保利通の展示が興味深かったです。
  

大久保利通像

  
西南の役での西郷隆盛の死後、大久保は馬車の中で幼馴染であった西郷からの手紙を読み返している時に、不平士族に暗殺されました。大久保は事実上、日本初の内閣総理大臣であったにも関わらず、実際は私財を投げ売って借金してまで国や鹿児島に尽くしていたこと後から判明したそうです。それを知った暗殺の実行犯らが懺悔したという話が印象的でした。

大久保利通生家の近くの甲突川

  
無益な内戦を起こさないために、士族を鎮めるのが西郷の役割であり、そこを悲劇のヒーローのように扱うことには少し違和感がありました。大久保利通は冷徹なエリートとして描かれることが多いような気がするのですが、実は西郷より重要な人物かもしれません。鹿児島では大久保の功績は当たり前なのでしょうが、やたらと西郷のイメージが強すぎます。

それにしてもなぜこの鹿児島の加治屋町という甲突川沿いにある一周約2km程度の狭いエリアから、西郷、大久保、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛など明治維新、日露戦争を主導した偉人が輩出されたのでしょうか?薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育が有名ですが、そこまで影響があるとは思えないし、その後、鹿児島から多くリーダーが出たわけでもありません。
 

  
それには地理的要因と時代が大きいような気がしました。実際行ってみると、鹿児島は江戸や京都から遠く離れていて、琉球や中国大陸に近い異質な土地です。平均身長が158cmだった当時、大久保や西郷はじめ薩摩の武士は体が大きく現代人と変わりなかったそうで、琉球から入った肉食文化が影響した可能性を資料館で指摘していました。

言い古されたことかもしれませんが、革命は周辺から、異質なものから生じるのだろうと感じます。そう考えると幕末に似てきたとも言われる現代も、昭和・平成のメインストリームではなかった最果てから変化が起きるのでしょうか。

こんなふうに、学会中に散歩しながら、仕事とはまるで関係ない史実に思いを馳せるのも悪くないです。学会とか発表にも慣れてきたということでしょうか。今回は座長もやらされましたし。

(2024.7/23)

ミニドラマ制作でのちょっとしたAI活用

今回、初夏のさわやかなキャンパスを背景に、ヤングケアラーと青春をテーマに、学生たちと6分のミニドラマを制作した。なかなか学生たちの演技も達者で、ドラマ制作にはまだ不慣れな私たちではあるが、自分としてはそれなりに良いものができそうな予感はある。いま、学生が色補正をやっているが、5月末に映画祭に応募する予定だ。

今回もAIは以下のような箇所に少し活用している(生成AIは1と3のみ)。

  1. オープニングタイトルデザイン
  2. はめこみLINE画面の作成
  3. 他、実在だと問題のあるシーン(オチに関わるため明かせない)
  4. カーテンの柄をごまかす
  5. ゴミ袋など画面上の邪魔なオブジェクトの除去

脚本にはAIは使わないようにした。なんか自分たちの頭の中ではない別のところから余計な要素が入ってくるのが、ノイズになる気がしたからである。それぞれプロの領域ではたぶんこんな感じで、肝の部分にAIは使わないかもしれない。自分の考えや志向をストレートに反映させたくなるのである。

Image generated by Adobe Illustrator at the prompt “Illustration of college students making a film on a beautiful, large campus”.

  
むしろ、こだわりのない部分というか、さっさと処理したい部分にAIを活用する感じだろうか。しかし、AIや生成AIの技術を分かっているのと分かっていないのとでは、映像制作のフローはだいぶ変わるだろうという気はする。例えば、今回はロケの時間が取れないため、ゴミ袋が背景に入っていることは分かってはいたが、あとでAfter Effectsで消そうと思いながらFIXで撮影しておいた(PANしたりクロスすると、消せなくなる)。

(2024/5/17)

メディア教育への生成AI活用

来年度から生成AIを授業に積極的に活用していこうと考えている。イラストレーターや文筆、映像などむしろクリエイターにとって生成AIの影響は大きいようだ。
ひと昔前は単純作業やホワイトカラーの定型労働を置き換えるイメージだったが、それはAIというよりDXによる自動化ということかもしれない。例えば、ナレーションにAI音声を使用している制作者が今は多い。これも生成AIというより、AI中心の技術で単純な読み上げとして置き換えられている。
生成AIは、単純な作業の置き換えではなく、もっとアシスタント的な役割だ。昨年から自分の映像制作においては、タイトル、翻訳、背景画像・CG、デザインなどに少し生成AIを使ってみている。感想は以下のようなものだ。
 

Adobe Fireflyで作成した「氷の世界にたたずむ少女と犬」

   

生成AIを使ってみて

我々のような制作者の場合、すでに頭の中にイメージがあって、それをテキスト表現を使って、思うような素材を出そうとするのだが、映像のイメージをテキストで表現するのが難しく、自分で作った方が早いと感じてしまう。
フリー素材を探すのと、生成AIで出すのとどっちが早いかという感じで競合するケースもあるが、今のところは慣れたフリー素材サイトで探したほうが早いかもしれない。
特に生成AIで作ったアート系の画像は、AI特有の気持ち悪さ、不気味さがあって、使いにくいケースがある。感情を感じさせるような温かみのある個性的なデザインはまだ難しい。
いずれも、制作者の求める基準と微妙にずれていることから生じる違和感に対してどう向き合うかということである。
 

導入しやすいプロセス

使いこなすには様々なノウハウの蓄積が必要だと感じた。映像制作においては以下のワークフローにおいて現段階でも役に立つと思う。

1)企画のためのアイデア出し、資料集め、事実関係の整理
2)膨大なインタビューの要点整理、書き起こしのケバ取り
3)使えそうな素材のピックアップと整理(将来的には)
※現段階では難しい。ただ将来的にはユーザーの編集傾向をソフト内に反映させることはできそう
4)色補正、音量調整
※似たようなことはもうすでにできるが、AIを使っているわけではない
5)モザイクやコンテンツの塗りつぶしといった細かい修正作業
6)テロップデザイン(特にパターン化された大量の内容)
7)音響効果
※これもイメージ通りの音を作るのは現段階では難しく、フリー素材から探した方が早いという段階
8)タイトル制作、翻訳など
※ただ、あくまで補完的な作業である。最終判断をするためには、相応の経験を積んで価値判断ができる人間がいないと、AIを補完的に使うことさえもできないだろう。

特に3)の膨大な素材から適切なカットを選ぶというのはニーズがあるが、まだ実装できていないのではないか。報道やドキュメンタリー、イベントものでは撮影素材が膨大な量にのぼる。この抜き出しを効率化したい制作者は多いはずだ。
 

導入しにくいプロセス

上記のような生成AIの使い方は、映像制作の中でも補完的作業だといえる。ただし以下のようなものは現段階においてもなかなかAIでは置き換えられにくい。

1)企画書の制作
企画書を出す相手は感情のある人間であるため、どこが刺さりやすいかはやりとりをした人でしかツボは分からない。
2)予定調整、段取り、スケジュール作成
これも関係者間でのやりとりなのでAIに任せてできるというわけではないし、別に自動化して楽になるわけでもない。
3)撮影・ロケ
ビデオカメラとかデバイス自体が進化して、撮りやすくはなるだろう。ただこういう身体的な動作は人間がやるしかない。プロカメラマンを呼ぶ現場が減る可能性はある。その場合はサブディレクター兼カメラマンといった新しい役割が生まれるし、すでにそうなりつつある。
4)編集・ストーリーテリング
これも企画作業と同様である。どのようなストーリー展開が視聴者に受け入れられるのか、入力する手間の方が大きいし、自分で考えたほうがイメージ通りのものを作りやすい。
 

AIを使いこなすには

実際に使ってみれば、イメージ通りのものを出すのが難しい。まだノウハウや実践事例が少なく、きちんと使いこなせすには経験が必要となる。ワークフローに生成AIを活かす仕事さえ短期的には生まれるかもしれない。

こういう変化が早すぎる分野に下手に首を突っ込まない方が、徒労に終わるリスクに巻き込まれないかもしれないが、私はAdobe のEducation Leaderというのに関わったこともあるので、生成AIはもっと使ってみたい。

いずれにせよ教育で使う場合は、自分なりに創作や価値判断できない学生の段階では、AIを使いこなすのは難しいし注意すべき点が多い。私も正直、あまり有効には使えていない。学生のように自分の感性や表現の軸が定まらないうちにAIを多用するのは、単に機械に使われるだけの存在になってしまう危険性もあると思う。
技術が発展すれば分野によっては制作者が不要になるだろう。とりわけストーリーや意図が明確でない内容、あるいはシンプルな内容は、AIで作りやすい。例えば、空撮による大学キャンパス紹介のとか、来場者の良いリアクションや表情を中心にイベント紹介映像を作るとか、ストーリーや意図が薄い編集は、AIによって自動化しやすいはずだ。

(2024/3/26)

新年の抱負というか方向性というか

新年に特別な区切りは意識していないが、一応、抱負みたいなものを書く。昨年の4月に部活を作って、やる気のある学生たちと賞やコンクールに応募していこうと決めた。運動部でいえば試合のようなものかな?12月にようやくそうした成果を2つ出せたので、今後もその方向性で続けていくつもりだ。

大分県佐伯市の高平キャンプ場より(本文とは関係ありません)


適切な指導がなされないと学生たちは映像制作や作品の公開は難しいし、私としても学生がいないと何もできない。お互いに補いながら、しばらくは全力で良いものを作り続けていくのが中期的な方向性である。

これまでもそうだが、大きな方向性を決めて数年単位でこつこつと実績を積み上げないと次のステージはいけない。その意味では、まだ大阪に慣れてきてようやくスタートラインに着いたといったところである。その先の構想もあるが、何十手も先のことは不確実性が高く、考え過ぎてもあまり意味がない。

ディレクターを辞めた頃はまず大学でのポジションを固めないといけなかったので、慣れないながらも研究ぽいことで成果を出していかざるを得なかったが、映像制作に注力する段階に来たことでようやく本来の仕事に立ち戻った感もある。

一方でJSTと始めた科学広報の映像制作も楽しみである。私も改めてM先生に学びながら、平行して取り組んでいきたいし、科学コミュニケーションの仕事に関してはここから広げていきたい。

本務である管理職業務に関しては結構頭の痛いことも多いが、粛々とまっとうするしかない。もう年も年なんで、予算や採用、全体を構想する仕事が増えてくる。学生とわいわいやってるだけなら楽しい仕事だがそうもいかない。降り注ぐ事務を効率的にこなすには慣れが必要だ。

2024/1/3

地方創生と科学の番組

今年はたまたま地方創生の専門家の方と動画制作で協働できそうなので、地域やまちづくりをテーマに学生たちと活動をしたいと考えている。その方と打合せしていて、そういえば自分も自然番組や科学番組以外にも、「新日本紀行ふたたび」というドキュメンタリーもたくさん作っていたなと思い出した。もしかしたらサイエンスと地域取材が自分の二本柱なのかもしれない。

那智の滝(本文とは関係ありません)

地域がなぜ身近かといえば、私もそうだが誰でも登山やキャンプ、釣り、温泉旅行などで地方を訪れることはあるだろう。道の駅で特産品を買ったりもするし、博物館に寄ったりもする。田舎出身の人も多いし(私も姫路のはずれ出身)、多くの人にとっても地方創生は身近なテーマである。また歴史や地理、都市計画は当然として、地球科学や植物、動物学なども、地域風土とのつながりが深い分野だ。そうした地方と科学がクロスオーバーしたところを狙ってヒットしたのがNHKの「ブラタモリ」だろう。

ブラタモリの視聴者がみんな地理や地形学が好きかというとそうではなく、入り口は旅したことのある地域やなじみの地域、自分の住んでいるエリアだからということでまずは見る。そして、あの特徴的な岩にはこんな意味があったのかと改めて感動する。一般市民の「旅や観光」という身近な文脈から、地球科学や歴史学に巧みに誘うところがあの番組のすごいところである。またまったく予備知識ゼロで臨むというタモリもすごいが、専門家を含めて完璧に準備する制作陣もすごい。

というわけで、今年は地方創生に関わる動画を作っていこうかと考えているところだが、可能ならば科学技術要素も時々入れてブラタモリ的な演出を狙っていきたい。

2023/2/28

北の果て一人生きる

NHK総合で1月3日に放送された漁師のドキュメンタリー「北の果て一人生きる 浜下福蔵92歳」。日本最北の離島・礼文島のさらに最北の鮑古丹(あわびこたん)という地区で生まれ育ち、体力の問題で引退した老漁師を描いている。朝から海や自然を見つめ、毛筆で自作の詩をしたためる。素直で力強くありのまま感じたことを筆で表現するのだが、その詩が素晴らしい。

©NHK

特にラグビーでの挫折を抱えた大地さんという若者と仲良くなるシーンが心に残った。彼は昆布漁の短期アルバイトで鮑古丹にやってきていた。若者たちから孤独を癒やしてもらい、力をもらっていることを福蔵さんは感じていた。

「底知れぬ力をもって(礼文島の)花が”大地”に顔を出す」「なんだこの男は大地?俺の書いているのと同じではないか」「それもそのはずご両親が喜びあふれて、この子を誰よりも良い者に育て、良い者になって欲しいと」思いを込め君に名付けたのだと。そんなことを詩で伝えていた。それまでニコニコしていた大地さんも顔が引き締まった。

なかなか良い詩になったと思ったのか、「今の録音してた?」と聞くところもお茶目だ。「いや、撮ってないけど、今のはテレビカメラで撮れてる」と大地さん。

たったひとりで最北の港をずっと守り続けているので、福蔵さん自身はもはや達観して孤独を感じなくなったのかと思いきや、最愛の妻を失った孤独は今も全く癒やされておらず、寂しくて泣く日もあるという。しかしこうした若者たちとの出会いを経て、最後は「強くなければ生きていけない」と夕闇の海に向かってつぶやく。

こんな厳しい環境での生活は自分には到底できないが、我慢も多かった若い頃と違って、年齢を重ねて徐々に自由に生きられるようになってきた。仕事は全然違うものの、福蔵さんを見習って、他者や自然から生きる力を得ながら、シンプルに生を楽しめればいいのだということを教えてもらった。

1/10まではNHK+で見られるのでどうぞ。

2023.1/7

オートエスノグラフィーの困難

科学コミュニケーションと映像に関しては、まだ何も自分は研究的な活動は始められていないなと思っている。
ある著名な広告・マーケティング分野の方が北海道大学アイヌ・先住民研究センター、石原真衣氏の「〈沈黙〉の自伝的民族誌(オートエスノグラフィー) サイレント・アイヌの痛みと救済の物語」を紹介していた。私はまだ読んではいないけど。
科学コミュニケーションにおいても実践内容を報告として学術誌に掲載するということがよくある。これは、オートエスノグラフィー(著者自身が個人的経験を調査する質的研究の一種)と言えなくもないだろう。しかし時に自分たちの活動を自己省察することは、客観的に論述していく科学的手法と相反する困難さが常につきまとっている。

大阪市中央公会堂(記事内容とは関係ありません)

誰か研究者が、ディレクターである私を調査してくれれば、いろいろ自分から引き出せるような気もするが、自分自身でそれをやるのは非常に難しい。科学コミュニケーションと映像などという分野をやっている人間は他にこれまでほぼ誰もいなかったが、今は少し仲間が増えつつある。私自身はそろそろ映像を作るだけでなく、調査する側としても、あまり好きな仕事ではないが実践者から経験や知識を引き出さないといけない。

とはいえ、ここ数年は映像を制作しながら、そのプロセスを客観視するように努めてきた。自分で編集しながらも、どのようなロジックで映像を選択し並べているのかといったことを観察しているつもりである。メディアで仕事をしていた頃とは違い、今は全行程をほぼ一人で短時間のうちにまとめないといけない。特に編集や台本制作は直感的にこなしている。だいたいは短い期間で作らないといけないので制作のプロセスはかなり省略する。

最近は正味3日くらいで集中して作ることが多い。素材が少ないことがよくあるので、若干、パズルを解くような作業でもある(3日で編集が終わるという意味ではない)。どのカットを使えば、見ている人の気持ちに訴えられるかという感情の部分と、ストーリーの整合性といった論理の部分の組み合わせで、直感的にストーリーや映像の順序を選び取っているようである。だが、このような自分の思考回路でさえ把握するのは難しい。
この直感は制作の仕事をする中で徐々に培われたもので、他のディレクターにもそれぞれの方法論があるだろう。それを個別に明らかにすることに正直それほど意味があるとも思えないのだが、何かその先に意味を見いだすことができるかもしれない。

2022/12/30

映像制作とDAO

頼まれ仕事が多く、最近はちょっと疲れ気味。2月になったら少し落ち着くだろうか。

前の記事で映像制作の役割分担について書いたが、それは、少し前からDAO(非中央集権型自律分散組織)に興味があるからだ。以前は会社組織を考えていたこともあったが、現在はブロックチェーンによってプロジェクト型の可変的な組織を作ることができるようなので、そちらの方が映像制作とは親和性が高いかもしれない。

難波宮跡(なにわのみやあと)公園(記事内容とは関係ありません)

たまたま、堤幸彦監督、本広克行監督、佐藤祐市監督が「SUPER SAPIENSS」というトークンを基盤とした共創コミュニティを作るということで、関係者からお声がけいただいた。私がぼんやり考えていたことを、ドラマ・映画界のカリスマである3人が既に実施しているということで非常に興味深い。DAOやNFT自体よく分からないという方は、このサイトなどを参考にしてほしい。

最近、メディア業界のヒエラルキー構造は弱まっている。広告予算の減少もあるが、インターネットやデジタル技術によって情報流通と技術的な優位性の2つのボトルネックが崩れたことが大きい。誰でもYouTubeなどで動画配信をして広告費を稼げる時代にあっては、フラットにプロジェクトメンバーを組み替えるチームの方が機動的に創作がしやすい。

映像の受け手にも変化は及んでいる。若者は映画やドラマを除けば、内容が凝縮された高品質なコンテンツをあまり見ようとしなくなった。むしろ気の抜けたVログや、感覚だけで見られるMVを好む傾向がある。
良い番組を見せればもちろん感動はするが、上の世代が「この情報が面白い、意義がある」として作ったものはなんとなく億劫というか、意味づけの強いものを避けるというか、「別に今は何か知りたいわけではない、特に何か分かりたくはない」という心情にはまりにくくなっているのかもしれない。もちろん自分もそういうときはある。選択肢が増えたということでもある。

若者からすると、作っている側の人間の”ノリ”が、自分に合ってるかどうかのほうがむしろ大事であり、DAOやNFTが今後、映像プロジェクトを育てていく手法として取り入れられていくのではないかと考える理由である。例えば、コンプライアンスが今ほどうるさくなかった頃のフジテレビの”ノリ”は世間の空気と確実に合っていたように思う。

私も個人や大学で映像制作を請け負うことはある。動画の単価は安くなる一方なので、会社だと組織維持がだんだん難しくなっていくように思う。やるとしたら小規模な組織か、フリーランスなどがDAOによるコミュニティを育て、複数のプロジェクトを走らせていくという形が今後も出てくるだろう。

2022/12/3